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播州刃物の歴史

小野市の工業小野市の工業

握りばさみの生産量日本一握りばさみの生産量日本一

小野のにぎりばさみの歴史小野のにぎりばさみの歴史

刃物のふるさと、鉄のふるさと刃物のふるさと、鉄のふるさと

小野市の工業

兵庫県小野市の工業はそろばん、家庭用刃物などの伝統的特産業を中心に、新規産業の導入を図りながら発展してきた。特産業の家庭刃物については「にぎりばさみ」が1807年に始業されてから包丁類と共に農家の副業として拡がり、昭和に入って「ラシャ切りばさみ」が開発され、以後各種はさみの生産と相まって刃物産地としての基盤を確立した。またその鋭利さで「カミソリ鎌」と呼ばれる播州鎌は品質、使い易さ等が好評で全国生産量の約60%を占める。これらの他のこぎり、釣針も小野市の特産品として重要な役割を果たしています。
(平成8年のはさみの出荷額は16億9930万円、鎌の出荷額は7億9875万円)



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握りばさみの生産量日本一

今も力を持つ播州刃物

小野市、三木市といっても、金物に縁のうすい一般の人達にとっては、3千を越す地方自治体のうちの2市として記憶があるかないかの存在かもしれないが、日本の金物を語るうえでは大きくクローズアップされてくるのである。
神戸市の北側に三木市、さらにその北部に小野市がある。兵庫県の南部だが、阪神播磨臨海工業地帯の後背地に位置し、瀬戸内海に沿って走る山陽本線、新幹線のいわば本通りからわずかに外れて位置しているため、経済高度生長期にも人工の集中現象に見舞われることを免れた、静かで平和な小都市である。

神戸電鉄に乗れば神戸から粟生線で三木、小野まで1時間、JR線なら三木線で三木まで、加古川から加古川線で小野へ、どちらも1時間たらず。車では、山陽自動車道が開通し、大阪から50分といっそうアクセスが楽になった。

三木市は大工道具の生産地として、日本でもっとも有名で、鋸、鉋、鎌、鏝、のみ、などを造り総生産量の4分の1を欧米諸国や東南アジア、カナダなど世界中に販路を広げてきたが、はさみの生産は少ない。

小野市には地場産業としてはさみ算盤(そろばん)がある。400年前の慶長年間からこの地に始まった算盤造りは、1972年の当時の年産350万丁をピークとして、電算機の普及につれて年々生産量が落ちていますが、まだ根強い需要があって、全国の算盤生産の75パーセントを造っている。

はさみはラシャ切り鋏、握り鋏を始めとして、剪定ばさみ、池坊華道ばさみ、園芸ばさみ、料理はさみ、などを造り、1980年当時は合計で900万丁も生産していた。そのうち、握り鋏の生産量は512万丁、ラシャ切り鋏は235万丁も造っていました、が近年大幅な減少(1995年では104万丁)をきたしていますが、それにしても、握り鋏は今もなお日本一の生産量を誇っています。



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小野の握りばさみの歴史

今も力を持つ播州刃物

小野市の握り鋏の創始者は、1783(天明3)年、大阪で、はさみ造りの修行をして帰郷した盛町宗兵衛である。天明年間は徳川十代将軍家治の時代、この天明3年7月には、浅間山の大噴火で死者2万人を数えた。小野市郊外の大龍寺には、盛町宗兵衛の墓があり、苔むした碑面には「肥後権守 盛町宗兵衛橘-------」と刻まれた文字が読み取れる。この人の播いたタネは、200年後の今日まで、握り鋏の生産日本一の地場産業となって残ったのです。この約200年間に、たくさんの日本独特の産業が生まれては消えた。

明治以来、海外から押し寄せる新しい文明開化の波に洗われて、ほとんどのものが埋没したにもかかわらず、握り鋏は別名”和ばさみ”と呼ばれて生き残った。伝統を残している素朴な姿の握り鋏と、日本人の生活とのつながりは、ここ何年かで日本人の風俗習慣がすっかり変化してきていながら、断ちがたい絆でつながっている。

1952年11月、太平洋戦争の戦渦がようやく収まったころ、播州握り鋏研究会が発足した。「今や播州握り鋏は全国一との名声を博するに至り、270余名をもって70種類を数える握り鋏を年産70万突破する現在、先覚者の努力(中略)、その伝統きずつけることなく、技術向上に寄与すべく」設けられた研究会の発足当時のメンバーは11軒だった。戦時中は、ハサミを造ることさえできなかったものが、平和が戻ってふたたびハサミを造ることができるようになった喜びとともに、上物を造る伝統の復活をめざすための研究会あったのだろう。
当時の記録はほとんど残っていませんが発足当時の会員名簿だけは残っている。その中に、握り鋏造りの名工として知られた、多鹿貢、小寺藤二、井上治夫らの名があった。

播州物”といわれる三木、小野の金物は国内各地ばかりでなく、海外にも進出しているとはいえ、200年の伝統に守られてきた握り鋏や、文化年間(1807)に始まった鎌などの需要が将来においてどんな変化を呼ぶことになるのか、その予測は難しい。日本の産業構造や日本人の生活意識などと、深くかかわってくることであるに違いないからだ。
火造りで造る握り鋏は、1人で1日やっと10~15本しかできない。これは昔ながらの製法だが、この古い工法を守り続けられる人は小野ではもういない。今では複合材の刃を握り部分の軟鉄に継いだものを仕上げる工法で、合理的にまた安定した品質で生産することができます。

握り鋏の本当の味は、やわらかい腰(曲げ尻)のバネの加減が大きな作用をするが、全鋼の握り鋏はバネが固くお世辞にも使い心地がいいとはいえない。スーパー、ホームセンターなどで、500円前後で売られているのはたいていこの全鋼の握り鋏で、釣り人などが釣糸を切るために使ったりするのだという。とにかく切れればいいし、置き忘れたり紛失しても惜しくないハサミなのである。

こうした握り鋏の生命がいつまで続くのか、誰も知らない。少なくとも日本人が千年もの間馴れ親しんできた握り鋏が、もし使われなくなるときが来るとすれば我々が物の考え方から生活様式まですっかり変わってしまう時に違いない。
握り鋏の需要量は、1973年秋の第一次オイルショック前後をピークとして、確かに減ってきている。今後も減り続けるのか、また、見直される時期が来るのかおそらく誰もわからない。
不況になれば畑を耕して生き延びるという、いわば半農のはさみ職人たちが大部分を占めていたという歴史を経てきた、小野の握り鋏の強靱な生命力も、今日、刃物を扱いなれない世代を迎えては、やはり危機感を持っているのだろう。
このすばらしい芸術的ともいうべき”和ばさみ”を少しでも絶やさないようにしたいものである。


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刃物のふるさと、鉄のふるさと

物の生産はその原料、需要、技術蓄積に結びつく条件をそなえたところで発達する。交通の便はそれらの条件を大幅に改善する。つまり地域差を克服することになる。そうなると矛盾するようであるが、やはり伝統、下地のあるところがいつも一歩先んじ、ますます手を拡げやすくなる。

刃物の場合も例外でなく、主な生産地として現在にいきているのは昔から武具、大工道具、農具を作っていたところである。刃物のふるさとを支えてきたのは鉄であり、鉄のふるさとでもある。
日本の刃物は優れた和鋼と鍛冶の腕によって、素晴しいものとなり今日に至っている。

和鋼は砂鉄を原料としてタタラ製鉄によって得られた。砂鉄は中国地方の山塊に多く、製鉄は山陰、山陽で盛んであった。砂鉄の中でも山砂鉄は、もっとも混じり物が少なくて、鋼作りに適していた。船通山北の印賀のものは特に良質で、1945年(昭和20年)まで鉄作りが続けられていた。
タタラの意味するものはフイゴ(鞴)から炉へ、そして健屋(高殿)へ拡がり、さらに鉄山をも意味した。
フイゴとはフキガワ(吹革)が語源で、当初は狸の皮を使った小型の空気ポンプが好まれたのでそれが起りとなった。

天児屋鉄山は古い千種鋼の最後の鉄山(採鉱、製鉄の工場)であり、1885年(明治18年)まで続いた-----今から約100年前まで活動していたのである。鉄山の本事務所であり、外部への関門でもあった勘定場の跡が今も残っている。

高羅鉄山は天児屋鉄山よりも千種川の川下(今の千種町中心地寄り)にあった。今は何でもないような川沿いの田の中にポツンと畳道供養碑が残っている。この場所は当時の主要道でありながら、牛馬が脚をすべらせると50mも下の千種川に落ちるほどの難所だった。

高羅鉄山を経営していた泉屋(住友)はこの道を改修して石垣を作り石畳を敷いた。その記念碑が残っている。南無妙法蓮華経の文字のほかは読みづらいが、「畳供養 施主高羅鉄山勘定場 発起泉屋真七郎 安政元年寅年季冬吉辰 東河内村建之」となっている。1854年の建立である。

泉屋は住友金属のルーツで、銅吹き(製錬)で大成功していたが、幕末の情勢を見通して鉄を作り未来を拓こうとし、高羅鉄山のほか荒尾、樅木山、天児屋(以上兵庫県千種町)、吉川谷(鳥取県)鉄山を持ち、1877年(明治10年)頃に天児屋から退くまで鉄山を経営した。その後の天児屋は衰退しながらも1885年(明治18年)まで続いていた。

その頃までに、洋式製銑炉の知識も入り、それに適する鉄源(陸中仙人峠の鉄鉱石)も確認され、大島高任が橋野(釜石市)高炉で初出銑したのは1857年(安政4年)のことである。
三条小鍛冶宗近は伏見稲荷山の土を使って名刀を作ることに成功した。これにあやかって金物関係者は11月8日を鞴祭(御火焚)として、稲荷さんの火を貰ってきて火入れをし、鍛え初めをするようになった。

三木(兵庫県)の鞴祭は今は毎年11月3日の文化の日、金物神社で行う。関(岐阜県)では11月8日、初祖元重ゆかりの元重町千手院で行われている。

わが国の刃物の生産地としてよく知られているのは、北からいえば三条(新潟県)、関(岐阜県)、堺(大阪府)、三木、小野(兵庫県)などであるが、これらのところにおける刃物の歴史は古く、古くは2千年、新しくても3百年といわれている。

この他にも特定の刃物で古今に有名な地方(越前、土佐、呉)もあり、また東京物といわれるように東京から出される刃物も多い。また安来(島根県)の刃物鋼は各地でよく使われている。



********** 「鋏読本」佐野裕二著より *********



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